勉強量を増やすための原動力を探す旅

こんにちは。

赤本先生ヒラシマです。

勉強へのモチベーションが湧かない人のために今回は僕の成功ストーリーを小説っぽく書いてみた。

僕はありがたいことに最近、行動力があるとか凄いとか言っていただける機会が増えた。本当にありがたい。受験生の時は物理の偏差値をたった2週間で偏差値32→78という急速進化を遂げた。

大学に入って19歳の時に起業をし、起業一年目で『偏差値29からの東大合格』著者:杉山 奈津子氏と講演会で共演。

 

 

そして、21歳の時に初めて月収50万円を突破した。常に圧倒的な行動力とスピードで駆け抜けてきた。

あなたには行動する理由や原動力はあるだろうか。

・行動できない
・やる気が起きない
・モチベーションが湧かない

それはあなたが自分で設定している原動力が間違っているからなのかもしれない。

 

打倒天才
を掲げた男の過去の闇と勝利までのストーリーから今日はあなたの原動力を見つけ出す。

 

平島の原動力の源泉となったのは他でもない大切な人の死だった。

 

今日はつらつらと現在の赤本先生ヒラシマこと平島啓介が誕生するに至ったストーリーをお話しすることによってあなたの大切な人への忘れかけた想いのようなものを思い出してもらい、何かの原動力にしてもらえれば良いなと思う。

 

原動力のない人生

夢なんか嫌いだった

 

結構知ってる人が多いとは思うが、僕は高校1年生のとき大好きだった父親を亡くしている。お父さんはいつも「啓介には夢を追って欲しい」と僕に熱く語っていた。

そんな父の言葉を僕はいつも否定していた。

 

なぜなら、多くの時間を堅実志向の母と過ごしていたからだ。一緒に暮らしている母は父のチャレンジャー精神が家庭を離れ離れにしたと思っているため、

僕と姉には安定した堅実な生活を強烈に要求した。だから、次第に僕自身も夢を諦め、堅実な道を歩もうとしていた。

決して、母のせいで諦めたわけではない。そういう考え方になりやすい環境にいただけだ。

僕自身が母の考えに当時賛同していたというのもある。母は人として強かったから、そんな強さが欲しかったのだと思う。

 

しかし同時に、夢を追えという父の言葉は胸に深く刺さっていた。僕も夢を追うことを抑え込んでいたので聞いていて辛かったんだと思う。

「俺にはそんなの無理だよ!!」と父の言葉を煙たがっていた。その度に父は寂しそうな顔をしていたことを今でも覚えている。

 

離婚と借金

 

なんでお父さんと一緒に暮らしてないの?という疑問があると思うので答えておくと、僕が物心ついた頃には両親は離婚していた。

原因は父の職業(証券会社)による借金問題。仕事で多額の負債を何度も背負ってしまい、母が苦渋の決断で、僕たちを借金回収者から守るために籍を抜いた。

だから、離婚はしたものの二人は愛し合っていた。だから僕たち家族は月一回会っていたし、会えればそれだけで幸せだった。

毎月父に会うのが家族の楽しみでもあった。もちろん仕事が忙しくて、会えない月もあり、そんな時はとても寂しかったりもした。

会えない月が多い時はよく父に電話をかけた。

「お父さん元気!?お仕事頑張ってね!!」

これを言いたいがために電話をする。声が聞ければなんでも良かったんだと思う。そんな父も酔ってる時はやたら電話をかけてきたり。。。笑

 

父の背中

 

僕たち家族はお父さんに支えられて生きていた。父は借金を返すために死ぬほど働いていた。僕たち家族ともう一度暮らすことを夢見て。

そして、ついにその時はきた。父は借金を返して、僕が小学5年生の時に一軒家を僕たちにプレゼントし、僕が中1になると同時にそこで一緒に暮らすようになった。

「さすが父さん!!」この時が僕の心の声だった。正直この頃からだ。父が我が家のヒーローのような存在に見え始めたのは。

とても幸せだった。毎日目覚めれば父が家にいる。こんなに幸せなことはなかった。しかし、幸せな時間はあっという間だった。

 

父の転勤が決まり、また家族は離れ離れになった。父は転勤後より一層忙しくなり、会える時間が3ヶ月に一回が当たり前になってしまった。

それでも僕の高校の入学式や、姉の大学の入学式などのイベントには仕事を休んででもきてくれた。

 

父は僕や姉の学校入学を毎回自分のことのように喜び、職場でも毎日のように僕たちのことを自慢していたらしい。

 

最後の思い出

 

僕が高校へ入ってからある程度落ち着いた頃合い、祖父母も含め、みんなで父に会いに行こう!!という企画が決定し、金沢へみんなで遊びに行った。

久しぶりの父との時間は幸福の極みだった。高校1年生なのに父と二人でお風呂に入ったり一緒の布団で寝たりした。

これはもう言い表せないくらいの楽しいひとときだった。そんな楽しい時間は気付いたら、瞬きのごとく終わっていた。

「また遊ぼうね!!」

そうやって僕は父とハグをして、父の匂いを噛み締め、色白で大きな父の手と固く握手を交わして、金沢旅行は終わりを迎えた。

父がたまに我が家へ遊びに来た時やどこか旅行へ行った時、いつもしていたのがハグと握手。

 

これをしないではお別れはできなかったし、寂しくて泣いてしまうのを我慢するための「おまじない」のようなものだった。

 

夢を追う決意

父の死

 

そんな金沢旅行から数ヶ月後に知らせはきた。その日は僕の部活が休みで家で一日ゴロゴロしていた。

一本の電話が掛かって来た。ガラケーのディスプレイには祖母の名前が刻まれていた。

あまり祖母から電話がかかってくることはないのでなんだろうと思って電話に出てみた。祖母の声は暗く重かった。

「どうしたの?」

僕は咄嗟に聞いた。

「お父さんが亡くなりました。」

「え!?どういうこと?誰のお父さん!?」

「あなたのお父さんです。」

「ん!?誰のお父さんって聞いてるんだけど?何言ってんの?」

「菅原明善さんが亡くなりました。」

「嘘でしょ。。。。」

父の名前だった。

「本当です。明日金沢へみんなで飛行機で向かいます。信じられないとは思うけど、準備をしておいてください。」

 

 

僕はそのまま電話を切り、しばらく放心状態に陥った。状況が全く掴めなかった。

ちょっと前に金沢では一緒にお風呂に入って一緒の布団で寝たじゃないか。

元気だったじゃないか!!一緒にまた遊ぼうって言ったじゃないか!!!!どういうことだよ!!嘘だ!!!!!!

半信半疑で父の死を受け止められなかったものの昔のアルバムを取り出し、父との思い出の写真を漁ってはそれを見ながら号泣した。

この涙はいつ枯れるのだろうかと思いながら嗚咽をするほどに泣いた。出ないことは分かっていながら現実を認めたくないあまりに父に電話をかけたりもした。もちろん出るはずがなかった。

「お父さん。。。。どこにいるの。。。?」

そんなメッセージを泣きながら留守電話を残したりもした。でも、現実はあまりも残酷だったんだ。

 

二度目の金沢

次の日、早朝から飛行機で金沢へ向かった。父の遺体確認のためだ。金沢へ着くなり、警察署へ行った。

地下の遺体安置室へ案内された。救急車の荷台に白い布が掛かった人が横たわっていた。まるで刑事ドラマのように警察官がその布を取り去り、横たわっている人物の顔があらわになった。

紛れもない父だった。その瞬間、前夜枯らしたはずの涙が防波堤を突破して溢れ出して来た。

ハンカチなんかじゃ抑えきれないくらい涙が止まらなかった。

視界は歪み、前が見えなくなった。姉の泣き声だけがただただ聞こえるばかりだった。警察官が触っても良いと許可をくれた。

真っ先に僕はあの大きな手を握りしめた。冷たかった。凍えるほどに氷のような冷たさだった。

あんなに温かったのに。。。確かにその手は父そのものだった。原因は過労による低体温症。働き過ぎが原因だった。目でも感触でも父の死を悟ったとき僕の中で何かが壊れる音がした。

 

心から愛する人を亡くした初めての瞬間だった。それから毎晩泣いた。写真を見ては思い出に浸り、あの時僕がもっと優秀だったら…もっと頭が良くて公立高校に受かっていたら…

そしたら学費で負担をかけずにお父さんが無理することはなかったのに…そんなどうしようもないことを嘆きながら毎日が過ぎて行った。

もうあのかっこいい背中を見れない。

もう大好きなハグはできない。

もうあの大きくて温かい手と握手もできない。

また遊ぼうねって約束したのに!!なんで死んじゃうんだよ!!!約束と違うじゃないか!!!

 

毎日一人家にいる時泣きわめき散らした。父と母は僕たちが成人になったら籍を戻すつもりだったようだ。

父はずっと母に再婚を申し込んでいたようだが、母は子供たちが一人前になるまでは自分が幸せになることは考えなかったようだ。

全ては僕たち子供のために。

 

今年の抱負

 

父の職場では今年の抱負を書くのが毎年の行事だったみたいで、父の抱負を死後見ることができた。

そこにはもっと家族と遊びたい。家族と一緒に暮らしたい。家族と旅行に行きたい。家族のために頑張る。

家族と。。。。。

僕たちのことばかりが書いてあった。

愛されていた。確かに愛されていた。深く深く。それを改めて実感した。僕たちをいつでも見守ってくれていた。体を張って守ってくれていた。

そう感じた。

 

夢を追う決意

父は45歳で亡くなった。最後までかっこよく、最後まで愛しい存在だった。いつしか彼は僕にとって憧れの存在になっていた。追いかけたい存在として僕の中のヒーローになっていた。

彼に笑われない背中を創る。彼が追えと言った夢を追う決意をした。どんなことがあっても諦めずに立ち向かうと心に決めた。

 

今、僕はあなたにとってそんな姿を魅せられているだろうか。まだまだ未熟でできないことだらけで諦めてしまいそうになることがたくさんある。

それでも父に誓ったことだけは貫くために僕は今も活動している。

あの日「勝つまでやる」そう誓った日から行動を絶やしたことはない。

 

まとめ

 

僕の原動力は「父の死」だった。あなたの原動力はどこにあるだろうか。愛するものを守ろうとする力は時として、とてつもない強さを発揮する。

ちっぽけなことでも良い。本当の原動力を見つけよう。あなたはあなたの思う通りの人生を歩んで良いんだよ。辛い気持ちはバネになる苦しみは力に変わる。僕らは不幸を言い訳にして何もしなくなる。でも何もしなければ状況は動かないどころか悪化することを僕は身をもって体験した。

悲しみに暮れて人を困らせたことだってある。それでも諦めずに立ち向かったら少し前に進めた。

そして、ちょっとずつでも前進すれば、壊せない壁はないことを知った。だから、僕が父から教わった言葉をあなたに最後に伝えたい。夢を追って欲しい。

 

さて、重い話にはなりましたがここまで読んでくれた貴方に朗報です。

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たった2ヶ月で「早慶」にE判定から逆転合格させる驚異の指導力で1500名以上の受験生を指導。神楽坂駅前にて学習塾「歩成式受験研究所」を運営。独自の過去問研究法や学習理論を元に、偏差値40前後の受験生を次々と難関大学へと送り出している。

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